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皆さんは努力と聞いてどう思いますか?

努力することは良いことだと思いますよね。
かっこよかったり美しい言葉というイメージがあるかと思います。

私もそう思っていました。
過去形になってしまっています。(笑)

今はずいぶん考え方が変わってしまったのかもしれません。

私もそれなりに努力してきたし、そのおかけで今があるわけですが・・・
今ではむしろ努力しないほうが良いのかなとさえ思うようになりました。

考えてみれば人間の努力でできることってたかだか知れていると思うんです。

たとえば、受験勉強で1年間毎日10時間必死に勉強して努力したとします。
でも、試験の1週間前にちょっと勉強しただけですんなりと一流の志望校に
合格してしまう天才には勝てないんですよね。

その天才は受験勉強に強い頭脳を元々持っているから天才なんです。

他にはスポーツの世界で言えば、たとえばマラソンではもともと長距離走に
向く肺の機能を持った人には、どれだけ頑張っても勝てないんですよね。

そんなふうに世の中、逆立ちしても勝てないことはたくさんあります。
つまり努力ではどうにもならない現実があります。

それでも努力している姿は美しいし、それ自体に意義があると考える人も
いるでしょうね。
私もそう思っていました。

でも今は違います。
自分は努力しているなあと感じるということは、既にその時点で無理を
しているということなんだと思います。
それでも希望があるときは、無理をしてでもなんとか乗り切ることが
できる場合もありますが、実は心身が蝕まれている可能性大です。
希望がなくなった時に、一気に疲れやストレスを感じ、それこそ、
胃に穴が開いたりするなど病気になってしまいます。

なので長い目で見ると、努力はしないほうが良いと思うわけです。
誤解があるかもしれないので補足すると、いかに努力を努力と思わないで
取り組めることに出会えるか、というのが大事なのかなと思います。

たとえば、ピアノを弾いていると何時間でも楽しく弾けてしまう、というのは
努力とは違うと思います。
まさに努力しないで取り組めることですね。

さらに、それを仕事にできた人は、仕事自体をつらく感じることもかなり
少ないだろうなと思います。
たぶん、仕事=労働ではなく、仕事=趣味、という感覚でしょうね。

私は学生時代にこの考えができていれば、その後の人生どうだったのかなと
最近ふと考えることがあります。


イチローがついにプロ野球を引退しました。

できればあと5年、50歳まで続けてほしかったけど
こればかりは仕方ないですね。

10年ほど前から、野球を楽しんでいる雰囲気がなくなって
なんとなくつらい感じになってきているなっていうのは
テレビ画面からも察せられました。
でも、抜群の野球センスと努力で、年齢的な衰えをカバーしながら
ここまで続けられたんでしょうね。

イチローは間違いなく最高の選手でした。
ちなみに私はずっとイチロー選手のファンです。

若かりしイチローが三ツ矢サイダーのCMに出演していましたが、
それがかっこいいなと思っていました。
まさに夢を追いかける青年の目でした。
何よりバットを持った時のイチローの姿は神々しいものがありました。
その数年後にはメジャーリーガーになったわけなんですよね。

その三ツ矢サイダーのCMの動画、ありました!
探せばあるものですね。(笑)



使われている曲は大黒摩季さんの『ゲンキダシテ』です。

「元気出して 信じた道を走り抜けて 星より輝いて♪」
その後、イチローはまさにこの歌詞のとおりの活躍をしましたね。
私も信じた道を突き進めるように強くありたいなとあらためて思いました。


↓イチローの日本球界時代で私が個人的に印象に
残っているシーンの動画もありました。
1998年オールスターの時に、イチローがフェンス直撃の
ヒットを打ったシーンです。
キャッチャーカメラという特別なアングルからの映像で
すごく迫力だと思いました。
(開始3分15秒あたりにそのシーンがあります。)
静かな構えから流れるようにバットの軌道を描いたかと思うと
火を吹くような、空間を引き裂くような強烈な打球が一瞬にして
外野フェンスに直撃した映像に驚いて感動したのを今も覚えています。




もう一つおまけに・・・
↓イチローの振り子打法の美しさがよく分かる動画です。




さらにさらにおまけです。(笑)
↓イチローは打つだけじゃなく、守備もすごかったんですよね。
失点となる状況をどれだけ多く防いできたのかなと思います。




イチローはオリックス時代のユニフォームが一番似合っていたなあ。
見ていたら泣きそうになりました。
もうプロ野球選手としてのイチローを見れないと思うとやっぱり寂しいです。


今日はイチロー三昧の内容になりました。(笑)
本当にたくさんの夢と希望をありがとうございました。
おつかれさまでした。


今日、『星の銀貨』という童話をふと思い出しました。

でも、いつの間にか私の記憶の中で、銀貨じゃなく金貨に変換されて
うっかりと『星の金貨』だと思い込んでいました。
たぶん、昔にあったドラマのタイトルの影響だと思われます。(笑)

あらためまして『星の銀貨』ですね。

この話は、少女が困っている人達に出会うたびに、自分の持ち物や
着ているものを与えて、最後は与えるものが何もなくなってしまいましたが、
空から星の銀貨が降ってきて幸せになった、みたいな内容だったと思います。

困っている人を助ければ、自分に返ってきて幸せになれるよ、という教訓ですね。
心が洗われる上に、綺麗な風景まで浮かんでくるような良い話だったと思います。

でも・・・ちょっと待てよ。
その少女は本当にそれでいいのか。(笑)

確かに困った人を助けるのは素晴らしいことですね。
でも、自分には何もなくなるまで捧げるというのはどうなのかなあ。

現実には皆それぞれ自分の家族や財産を確保して、守っていますよね。
簡単には人に捧げたりしないし、まして無一文になるまで捧げるなんてあり得ないですね。

でも、星の銀貨の話では、無一文になっても困っている人を助けてあげなさいと
いうことなんですよね。
自分は犠牲になっても困っている人を助けてあげなさい・・・
滅私奉公とも言えますね。
そういうのはどうなのかなあ。

ここでちょっとお得意?の動物の世界にたとえると・・・

キリンの親子がライオンに襲われているとします。
まず子キリンが狙われています。
でもライオンはなんだかフラフラしています。
実はライオンは1週間何も食べていませんでした。
ここで何かを食べないと飢えて死んでしまいます。
母キリンはそのことを知っています。
なので母キリンは子キリンに言いました。
「ライオンさんは飢え死にしてしまいそうで困っているから、
あなた自身がエサになって食べられてあげなさい。」

星の銀貨の話はそういうことですよね?
違うかも。(笑)

人としてそうありたいとは思うところもあるにはあるんですが・・・
う~ん、なんだかなあ。
ちょっと引っかかってしまうんですよね。

確かに美しい話ではあるんだけど、そこまで自分を犠牲にするのを
勧めるのはどうなのかなとちょっと疑問に思うところもあります。
とても良い童話なんですけどね。

私は大人になって心が汚れてしまったんでしょうか。
皆さんはどう思いますか?


今日3月11日は東日本大震災からちょうど8年になりますね。

震災が起こった時、皆さんは何をしていたか覚えていますか?
私は仕事で東京の取引先の人と電話をしていました。

話し始めてしばらくすると、電話の奥で悲鳴が聞こえてきました。
「キャー怖いー!」
みたいな今までに聞いたことのないような悲鳴でした。
電話で話していた取引先の人は緊張した声で震えながら
「大きな地震です」と言っていたと思います。

それで、私は東京の方面にすごい大地震が来ていることを知りました。
すぐにテレビを見ると、東京が不気味なほど揺れている映像でした。
この映像うそでしょ?って思いました。
そして東京だけでなく、東北では津波被害に襲われている現実も
映像で見ることになりました。

東日本がすごいことになってしまっていました。
本当に忘れられない一日になりました。
今もなお、その爪痕は残っています。

東日本大震災は地震災害ですが、忘れてはいけないのは原発事故ですね。
それがあったため、被害はさらに大きくなり、この先もずっと残ることになりました。

一夜にして福島が二度と戻らない地となってしまった現実。
もともと福島はそれこそトトロが自由に飛び回っているような美しい自然が
広がる素敵なところだったと思います。

私たちの世代でそれを汚してしまったことを深く反省しなければなりませんね。

メッシというサッカー選手、ご存知ですか?

メッシは世界屈指の強豪チームに所属しており、欧州のリーグシーズン最多得点の
記録などを持つ世界的なスーパースターです。
サッカーに詳しくない人もなんとなく名前は聞いた記憶はあるんじゃないでしょうか。

とにかくすごい選手です。

しかし・・・
意外にも彼は誰よりも運動量が少なく、ディフェンスをしないそうです。

つまり、彼は自分の得意とするゴール前での得点に絡む場面では、最高の仕事をしますが、
苦手なディフェンスにはあまり力を入れない、という人なんです。
周りの選手もそれを認め、皆が自分の得意な場所で最高のパフォーマンスを発揮すると
いうスタンスなんだろうなと思います。
それでいて、というか、それだからチームも世界屈指の強豪なのでしょうね。

もしそれが日本代表のサッカー選手だったらどうでしょう。
ディフェンスをしなかったら、あいつはさぼってばかりで動いていないとか、
チームに貢献していないとか、散々叩かれるでしょうね。

なので、日本代表はどのポジションの選手も、悲壮なほど攻守とも必死過ぎて、
試合が終わると皆燃え尽きて抜け殻のように疲れ果てているような気がします。

いつも一瞬の気も抜けないほど張りつめていたら、心身とも消耗は激しいだろうし、
怪我が増えたり、次の試合にも響くと思います。
日本代表はずっと決定力不足とも言われ続けていますね。
それはおそらく攻撃の要になる選手が苦手なディフェンスなどににも全力で
対応し過ぎるあまり、得意なことで発揮できないためなんだろうなと思います。

それと比べると、メッシが試合で見せるスタンスは、日本代表とはまったく違いますね。
ある意味、異端児。
でも、世界一優れた選手なんですよね。
ディフェンスは苦手で運動量も少ないけど、得点能力という点で突出している部分を
見事に活かして世界一と言われているわけですね。

一方、日本は世界一異端児を認めない国だと思うので、メッシのような優れた選手は
なかなか生まれないんだろうなと思います。

そんな日本においては珍しく、本田圭佑だけはメッシのような異端児でしたね。
日本代表のサッカーに新しい風を吹かせて、世界レベルに押し上げてくれていた
ように思いますが、残念ながら周りは彼を認めませんでしたね。
しっかり得点して結果を残していたのに、メッシのようにあまり走っていなかったら
動きが遅いとかさぼっているとか散々叩かれていたように思います。
そして彼が日本代表から去って、結局また、元の古い日本サッカーのスタイルに
戻ってしまった気がします。

私たちもどうすれば、自分をもっと輝かせることができるのか、メッシのことを
考えると分かりやすくイメージできるんじゃないでしょうか。

ということで、私は適当にさぼりながら仕事をしようと思います。(笑)


私は中学に入学してまもない頃、今も覚えているシーンがあります。

私の中学校では、3つの小学校を卒業した生徒が一緒になりました。
入学当初の4月。
同じクラスには、小学校で一緒だった幼馴染もいました。
その幼馴染は新しい友人を何人か作って楽しそうにしていましたが、
私はどうもクラスになじめていない感じでした。

そんな私ですが、小学校の頃は学年によって多い少ないはあったけど、
一応、いつも周りには友人がいたので、周りになじめない、という感覚は
ほとんどありませんでした。

でも中学入学早々に、周りになじめないという感覚をはっきり認識しました。
なので、私は休み時間などには、なるべくその幼馴染の近くにいるように
していました。

でもある日の昼休み・・・

弁当を食べ終えると、その幼馴染は新しく仲良くなった友人たちと
運動場かどこかに行ってしまって既に教室にはいませんでした。
はい、私は置いてきぼりでした。

仕方なく私は一人で運動場のほうに出ていきました。
どこに行くあてもなく、ただ校舎のそばをトボトボ歩いていました。
そうしたら、急にバレーボールのボールが飛んできて、私の頭に
ポコっと当たりました。
たぶん、バレーボールをしていた女子の上級生だったと思いますが
ボールが当たった私のことを笑っていたのを覚えています。

軽く当たった感じなので痛くもありませんでしたが、なんか
かなりむなしい気持ちになったシーンでした。

中学校での昼休み、初ボッチだったんですよね。

当時の私はそんな自分自身にすごく焦りを感じたのも覚えています。
このままじゃ中学校生活ずっとボッチになってしまう、と。

その次の日以降、私はなんとかボッチにならないようにと、積極的に
クラスメイトに話しかけたりしてなんとか新しい友人を作りました。
すぐにボッチ卒業できました。

でも・・・

その時からなのかもしれないです。
ボッチは恥ずかしいこと、ボッチはダメなこと、って思うようになったのは。

ボッチになると、これから続く学校での集団生活の中で、仲間外れに
されてバカにされたり、いじめられたりする。
それは恐怖でしかありませんでした。

だからなんとかボッチにならないように必死で仲間を作り群れないと
いけない思いに駆られていたのでしょう。
ある意味、学校の集団生活の中で、生き抜いていくために必要な
ことだったのかな、とは思いますが・・・

でも、今思うとなんでそれほどボッチになることを恐れたんだろうと
不思議にも思います。
過剰なほどボッチを恐れるとか、むしろちょっと変だなって気がします。

そもそも、なんでボッチがダメなの?って思うんです。
学校の中で一人ポツンとしていることってそんなにダメなのかなって。
一人が好きだから一人でいるんだよ、ってそれでも良いんですよね。
でも、学校の中では、それを許さない雰囲気がありました。
そう感じたのは私だけなのかな。

学校では、ボッチになっちゃいけないということを意識し過ぎて
大事なことを失ってしまう気がします。

たとえば、一人で考えて一人で行動する能力は著しく削がれて
しまうんじゃないでしょうかね。
それでは集団に合わせる要領ばかりうまくなるだけですね。
せっかく他人にはない能力や個性を持っていたのに、そこで
打ち消されてしまったケースも多い気がします。
そこまでして、ボッチにならないようにすることって必要だった
のかなと疑問に思うところがあります。

もちろん、集団の中で生きるためにはそういう意識も必要では
あるんでしょうけど・・・

どうなんでしょうかね。

ボッチになっても大丈夫だよ、という価値観を尊重する仕組み、
つまり個性を活かす仕組みをもう少し学校や社会に取り入れて
いっても良いんじゃないでしょうかね。